子どもが可愛くなくなるとき

発表会

ここ数年、日本において幼稚園や保育園の数が少なく、子どもの数に見合った受け皿となる保育園が不足していることが社会問題となっています。

早い人であれば、子供の誕生前後から開始する「保活」(ほかつ)。子どもを保育園に無事入園させることができなければ、母親の職業生命が危険にさらされます。

その問題に関する事柄は他のブログや専門家にお任せするとして、ここでは、無事に保育園や幼稚園に入園できた子どもたちを取り巻くワンシーンに注目しています。たいていの保育園や幼稚園において恒例行事として発表会、お遊戯会なるものが存在しています。

「発表会のショー化」

そこでは園児たちがその日のために用意された特別な衣装をまとい、練習を重ねたダンスや劇などの芸を父母たちの前で発表します。訪れた家族はまるでスターのような我が子や孫の姿を目に焼き付けようと、また、記録に残そうと必死でビデオ動画を撮影します。

こうした発表会が開催されたあかつきに、子どもたちは「よく頑張った」と褒められた上にご褒美をもらえます。学費を払う家族も喜び、良い思い出ができます。一生懸命に練習し、努力の結果を刈り取るのは子どもたちの自信にもなります。

こうした発表会は、年中行事として当然のように行なわれ、時の流れとともに各園が競いあうように年々華やかで高度なものになってきました。一部の園では、過度にショー化した演出が行き過ぎているとして、もっと自然な形の控えめなものに抑えているようです。

発表会を行なう目的がいつの間にかずれてしまい、園児のためというより、「他の保育園に負けないもの」、「我が保育園の自慢」、「親たちの虚栄心のため」などに変わってしまう場合があります。

それはともかく、見事に演技を終えた子どもの姿は親の自慢であり、目に入れても痛くない可愛い我が子なのです。

近年「可愛い」の意味が変化!?

保育園の先生の意見を拝借させていただくと、近年、親たちが使う「可愛い」の意味が変わりつつあるといいます。

かつて、親が子どもに対して「可愛い」という言葉を使うとき、それは、本来の子どもらしさや、子どもが持っている自然の特性に対するものでした。ところが最近、そうではなくなってきたようです。

最近の親の「可愛い」の基準は、親自身の持つ美意識のようなイメージに子どもが合格しているかどうか、になってきているそうです。

極端な話、子どもは親の趣味を押し付けられ、親だけが「可愛い」とはしゃいでいる様子がよく観察されるといいます。

子どもは、ありのままの姿より、親の願望を映し出す着せ替え人形やマスコットにされているのです。ペットに高価な服を着せて「この子はとても喜んでいる」と言いながら、実は飼い主が喜んでいるのとほとんど変わらないような状況です。

子どもが可愛くなくなるとき

子どもは幼い頃、親を喜ばせるために一生懸命になるものです。しかし、いつまでも子どもは親の思い通りになるわけではありません。

子どもが成長に応じて個性を発揮し、自分本来の存在になろうとすると、一部の親は裏切られたかのように感じます。子どもの自主性を封じ込め、あくまでも自分の理想像や願望を押し付けようとするかもしれません。

子どもがいわば「自分の意思を持つ」ことは、親を不安にさせます。親は、思い通りにならない我が子を「そんな子はうちの子じゃない」と強く非難し、服従を迫ります。

その結果、子どもはありのままの自分を出すことが悪いことのように感じてしまいます。さらに、親が思い通りにならない我が子に対してすっかり関心を失い、見捨ててしまうことも生じ得ます。

子どもが可愛いのは、親の基準に合格しているときだけで、合致しない場合は可愛くなくなってしまうのです。親が子どもに示す無条件の愛情と条件付きの愛情には大きな違いがあります。幼い頃の条件付きの愛情は子どもたちのその後の人生に悪影響を及ぼします。

発表会のステージで拍手喝采を浴びる子どもたちと食事を満足に与えてもらえないような子どもたちは大きく違っているように見えて、もしかすると、見かけほど隔たりがないのかもしれません。

どちらも子どもではなく、親の願望や都合のほうが優先され、子ども自身の本人らしさがないがしろにされているという点で似たような本質を持っているのかもしれません。